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◎プロチョイスとプロライフ

 妊娠中絶について論じられるとき、プロチョイスなのか、それともプロライフなのか、といった議論がよくあると思います。プロチョイス対プロライフという対立は、アメリカで顕著に見られるのですが、その議論を私が理解している範囲で要約すると、「キリスト教の一部の宗派の教えに基づき、生命を最大の価値として重視し、妊娠中絶を殺しであると考え、その禁止を求めるプロライフ」と、「いつ、どれだけ子供を持つかの選択の権利を女性が持つことを重視し、中絶の選択が女性の権利として認められなければならないと考えるプロチョイス」の対立であるということになるかと思います。(この理解が現在の双方の議論を完全にフォローしてるかどうかは疑問ですが、一般的理解としてはあり得るものではないかと思います。)

 このページではこれまで、自分たちの立場はプロチョイスであり、それでよいのだ、と考えてきました。しかし、掲示板に書き込まれる当事者の気持ちを見ているうちに、ことがそう単純ではないということがわかってきたように思います。それは、プロチョイス対プロライフというアメリカ的な構図に、日本の現状をあてはめて理解してしてしまうことへの疑問にもつながっています。

 掲示板への書き込みの多くは妊娠中絶の当事者であり、これまで掲示板の管理者として、当事者の選択がいかなるものであれそれを非難するようなことは許容しないという立場で掲示板を運営してきました(それは今後も変わらないことです)。つまり、中絶の経験や自分の気持ちを語っている人をたとえば人殺し扱いするような書き込みは認めないできたということです。もちろん他者がそのように言うこと自体に問題があるからなのですが、殺しであるなどと考える必要はない、と考えていたためでもあります。

 ところが、妊娠中絶の当事者の中には、自分は殺してしまったと考え、それが何よりもつらいのだと語る人々も少なからずいます。それは自分の中に痛みを持たず、どうしても共感を欠きがちであった自分にとっては意外なことでもありました。また、生命倫理や母性の強調など、むしろプロライフ的な意見が中絶の当事者によって書かれ、しかもそれが当事者の体験や気持ちと分かちがたく結びついているということもいささか驚きでした。

 このことは、そのような当事者の気持ちを無視するかのように、単純にプロチョイスだと言うことへの反省をもたらしました。むしろあるべき姿はプロライフな個人とプロチョイスな社会の組み合わせ−個人としては生命や他者の生命倫理を尊重するべきであり、それでいて社会は選択の権利を尊重するべきである−なのかも知れないとも考えました。


 一方、プロライフにしろプロチョイスにしろ、少なくとも自分が理解するようなかたちのものでは現状に対して何か役に立つ議論ではないのではないかとも考えるようになりました。

 もしプロライフの人々が生命を尊重しなければならないと考えるのであるとしたら、そのために彼らは何かしているでしょうか? あるいは、「かわいそうな赤ちゃん」を助けるために、彼らは具体的に何かしているでしょうか?

 実際には、まさにその具体的な努力をしているプロライフのグループも存在しますが、多くのプロライフの人々の活動は、中絶された胎児の画像を見せびらかし、自分たちの宗教の教えを一方的に説き、中絶を選択せざるを得なかった人々にまで、ただ単に不快な思いをさせているだけではないでしょうか。そんなことは「かわいそうな赤ちゃん」を助けるために何の役にも立っていません。また、自分の信じている宗教の教えを絶対的な根拠にした意見は、宗教的信条のちがう人に対してはなんの説得力もありません。あるいは、プロライフにくみする人々の多くが、男性が女性に対し優越している社会の現状を当然としていたり、それに対する反省や批判を踏まえていないことも大きな問題であると言えます。

 本当に必要なことは、まず望まない妊娠を避けるためにどうしなければいけないかをもっとちゃんと知ってもらうこと、「産みたいのに、経済的な問題、生き方への不安、家族の非協力や反対、無責任な男性のふるまいによって産めない」ケースに対してどのような援助があれば産めるようになるのかを検討すること、そしてもっと女性が子供を持ちやすい社会には何が必要かを考えることではないでしょうか。

 多くの場合、無力な赤ちゃんは無力な女性のなかにいて、女性はなすすべもなく赤ちゃんを犠牲にせざるを得ないのです。これは妊娠中絶に限った問題ではなく、幼児虐待のような「生まれてきた子供への加害」とも共通した現象だと言えるでしょう。これを解決するために必要なことは、弱者をさらに罰することではなく、そうしなくてもすむように助けるということであるはずです。

 もし生命こそが最大の価値であると考える人がいるとしたら、彼らに向かって再度問いかけたい。「あなたは『かわいそうな赤ちゃん』を助けるために、どんなことをしていますか?」

 子供ができたら産めばいいと単純に言うのは、無責任な男性の言動と全く変わりない態度です。それこそはまさに、問題と向き合っていない明確な証拠であると言えるでしょう。


 一方、プロチョイスに対しても、もし日本の現状を「中絶の選択が可能である」とただ肯定してしまうのだとすれば、何の価値もないと思います。もちろんアメリカのように、実際に中絶が非合法化され、女性から選択の権利が奪われる危険性がある国においては、その権利を守るための運動はとても重要です。でも、ただ問題が放置されているだけの日本の妊娠中絶をそれで肯定することはできません。

 仮に女性の自己決定の権利を重視するのであれば、日本の現状は、しばしば中絶以外の選択の余地がなく、選択の自由が乏しい状態だと思います。むしろ、産むという選択の幅をもっと求めることができてもいいはずです。


 よりまともな性教育のための努力。

 シングルマザーの子育てへの援助。

 若いカップルが結婚と子育てに積極的になれるような方法。


 これらを求めていくという点において、プロチョイスもプロライフも一致できるのではないか、またそうしなければいけないのではないか、そう思います。